ただ、日々の中で「気づく」「観る」ということを始めたことで、生活費がガクンと下がった。
節約しようと計画を立てたわけではない。
家計簿をつけて数字を追ったわけでもない。
以前の私は、気分に流されるようにしてものを買っていた。
仕事で嫌なことがあった日には、帰り道にジャンクフードをドカ食いする。
心が満たされないと感じると、必要のない服や化粧品を衝動買いする。
「自分へのご褒美」という名の、記憶にも残っていない出費ばかりだった。
その瞬間は確かに少し救われる。
けれど、明細に並んだ金額を見ては「またやってしまった」と自責していた。
変化が始まったのは、「ただ観る」という練習を取り入れてから。
“欲しい”という思いが浮かんだ時、それに飲み込まれるのではなく、「あ、今頭の中で“欲しい”っていう声が流れてるな」と気づいてみる。
ここで大事なのが、「自分の声=自分」と思わないこと。一体化してはいけない。
頭の中の雑音は自動再生音声であって、私の中からさっていく。
こうして湧き上がる感情を、一つずつ一歩下がって観察し始めた。
湧いてきた欲求は、床に寝転がって大声で駄々をこねる3歳児だと思い、怒りもせず、慰めもせず、ただ、「今これを欲してるんだね」と傍観する。
関心を得られなかった「駄々」は次第に収まり、叫んでいた声も徐々に消えていく。
これを重ねることで気づいたことは、私が今まで従ってきた強い欲求の多くは、ただの通りすがりの衝動だったということ。
そう分かると、不思議なことに手を伸ばす気がなくなる。
これを重ねていくと、本当に自分が欲しているものと、通り過ぎる一時的な欲求のどちらかが明確になっていく。
我慢するのではない。
「自分にとって本当に大切なものは何か」
ただ、それをひたすら問い直して選択するだけ。
そうして残ったのは、本当に大事なものにだけ使うお金だった。
静かに過ごす時間。
自分の世界観に合う空間。
心を豊かにしてくれる本や、言葉を書くための小さな道具。
そこには後悔も迷いもなく、むしろ「ここに使えることが嬉しい」と感じられる。
こうして書くと「節約術」にも見えるけれど、実際には逆だった。
私は何も「減らそう」とはしていない。
ただ、自分を通り抜ける声に気づき、本当に必要なものだけを残したら、自然にそうなっていた。
今の私たちは出費に限らず、
本当に必要なことや大切なことよりも、
社会・組織・人間関…自分以外の何かに振り回されすぎている。
いや、それにすら気づいていない。
それが当たり前なような、いつから当たり前になったかも、もはやわからないまま、ただ息を吸っている。
それが幸せならそれでいいけれど、違和感を感じてみるなら一度脱線してみたらどうだろう。
私はそろそろ本格的に脱線しようと思っている。
そして、そんな人の心の拠り所になるものを書いていきたいとも思っている。
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